神なんているの?

神なんている


少し考えてみてください。

 

たとえば考古学者が砂漠を深くまで掘り下げ、陶製の古いつぼのかけらを発見しました。

調査の結果、考古学者はその埃にまみれた粘土のかけらから、

何千年も前にそれを作った文明のことを、たくさん知ることが出来ました。

かまどの種類から焼きの温度、染料や素材などを知ることができ、

その時代の芸術や科学技術の度合のほどを評価することができたのです。

もとをたどれば、それもすべて砂漠に横たわる粘土のかけらから

得られた情報に過ぎないのですが・・・。

果たしてその考古学者自身が、そのつぼを作った文明を見聞きしたことがあったのでしょうか。

そもそもその文明が、本当にあったなどとどうして分かるのでしょうか。

彼にそれが分かるのは、誰かに形作られた粘土のかけらを見たからです。

熱することでつぼを作る知能、色を塗り、美しく仕上げられるだけの技術があったであろうことを、

その粘土のかけらに見たからです。

考古学者にとって陶器のかけらの存在は、

それを作った技術と知能を持つ人々がいたということを証明してくれる決定的なものとなります。

 

では、一度まわりを見渡してみてください。

夏の美しい夕焼けを。雲ひとつない夜の月や星々を。

そしてあなたが飲む水を。たくさんの木々が小さな小さな種から育つありさまを。

あなた自身のことを考えてみてください。

ものを見るふたつの目について。

ものを聞くふたつの耳について。

ものを味わい、語る舌について。

それから手と足、心臓と脳について。

複雑なつくりをしていながらも、それがいかに見事に調和して

機能しているかを、考えてみてください。

銀河系の動きから分子の複雑な相互作用、生態系の法則から込み入ったDNAまで、すべてがこの世界、

宇宙を存在させ、機能させている偉大な英知、知性、力の存在を示してはいないでしょうか。

ものを見ることのできる人にとっては、自然界の複雑な存在そのものが、

創造し、司り、維持する御方の存在、知性、英知があるのだという決定的な証拠となります。

『本当に天と地の創造、昼夜の交替、人を益するものを運んで海原をゆく船のうちに、

またアッラーが天から降らせて死んだ大地を甦らせ、

生きとし生けるものを地上に広く散らばせる雨のうちに、

また風向きの変換、果ては天地の間にあって奉仕する雲のうちに、

理解ある者への(アッラーの)しるしがある。』(聖クルアーン、第2章164節)

ほとんどの人は、創造主の存在を自然に感じ取るものです。

それはどの文化、宗教においても見られます。

無神論者、共産主義者、信仰を持たない科学者であろうとも、

こうした現実を避けることは出来ません。

ただ、「母なる自然」や「自然がもたらした驚嘆すべき世界」などという別の言葉にすり替えて、

「創造主」という用語をただ避けているに過ぎないのです。

今日創造主の存在を信じようとしない人々が多くいるのは、

真摯に現実を見て理解しようとするより、

流行やモノを追い求める生活を正当化して送るほうが安易だからなのでしょう。

大地を歩き、空気を吸う身体をもった一人の人間や一団体が、

創造主であるとか自存者の自己顕示だとか主張する人々がいますが、

この主張は当然のことながらその内容自体が矛盾しています。

創造する者が、同時に創造されることはあり得ないからです。

もしあなたが、例えばブッダ、クリシュナ、イエスを創造主あるいは

この世を司る者であると信じる人たちの一員だとしたら、

どうかもう一度お考え直しください。

私たち人間は、卵子に受精した一滴の精液からなっています。

母親の子宮の中で、私たちにはどうすることもできない一定の期間を過ごし、

成長していきます。私たちは母親の子宮から、おしっこやうんちを垂れ流しながら、

常に世話をしてもらわなくてはならない状態で生まれてきたのです。

食べ物がなくては死んでしまいます。空気がなくても死んでしまいます。

そんな人間が 果たして神たりえるでしょうか。

『言ってやりなさい。「かれはアッラー、唯一なる御方。

アッラーは自存され、御産みなされないし、御生まれになられたのでもない。

かれに比べ得る、何ものもない。」』(聖クルアーン、第112章)

考える人であるなら、命というものが、宇宙が、

そしてあらゆるものが創造主にいかに依存しているかを

的確に悟ることができるでしょう。苦境に立たされたときに

私たちが感じるひどい欠乏感・・・

それこそが如実に物語っているのです。

たとえば飛行機に乗っている自分を想像してみてください。

そしてその飛行機がまもなく墜落すると知っていたとしたら・・・

あなたは誰に助けを求めますか。

あるいは大海に浮かぶ船を想像してみてください。

その船が遭難し、激しい波に揺られているとしたら・・・

そのときすべてを忘れ、創造主のみに助けを呼び求める自分を発見することでしょう。

全知全能のあの御方なら私を助けられるはずだと願いながら・・・

『かれこそは汝らを陸に、また海に旅をさせられる御方である。

それで汝らが船に乗るとき、それが順風に乗って航行すれば、

かれらはそれを喜ぶ。暴風が襲うと、大波が四方から押し寄せ、

かれらはもうこれまでだと観念して、アッラーに向かって、

信心を尽くして祈る。「あなたが、もしわたしたちをこれから

お救い下されば、必ず感謝を捧げる者になります。」

だがかれ(アッラー)が救助してみると、見よ、

かれらは地上において正義を悔って不義を行う。

人々よ、汝らの反逆はただ自分自身の魂を害し、

現世の生活で享楽を得るだけであるが、

汝らはすぐにわれに帰るのである。その時われは、

汝らの行ったことを告げ知らせるであろう。』(第10章22~23節)

砂漠に住むアラブ人(ベドウィン)が、どうやってアッラーを知るにいたったかという質問に対し

「(砂漠に落ちている)ラクダの糞は、ラクダ(がここにいたこと)を示しているし、

足跡は旅人(がここにいたこと)を示している。

つまりは星をちりばめた大空やいくつもの崖を抱える大地、

こうしたものすべてが恵み深くお優しき御方(の存在)を示しているというわけじゃ。」